昨今の日本の小売業界は、円安などによる物価高騰や人手不足といった厳しい社会情勢に直面し、顧客満足度の向上とオペレーション効率化の両立という経営上のジレンマを抱えています。
こうした状況下で、リテールメディアは単なる広告枠の販売を超え、小売業の収益構造そのものを変える「ゲームチェンジャー」として大きな期待を集めています。今回は、将来の日本のリテールメディアを考察する上で参考になる米国の動向について分析し、日本における論点を整理します。
米国では、リテールメディア広告支出が 2025 年に 587.9 億ドル(前年比 19.4% 増)に達し、2029 年には 977.7 億ドル規模への成長が予測されています(*1)。注目すべきはその収益性です。成功しているリテールメディアネットワークは、営業利益率が 50% から 70% と推定されており、一般的な小売業の利益率を補完する異次元の利益源になり得ます(*2)。
現在、米国市場では構造的な変化が起きています。オンサイト(自社 EC サイト内の広告在庫・ストア内ブースト)が枯渇しつつある一方で、リテールにとって YouTube などの外部の広告配信面を活用する「オフサイト広告」(ストア外ブースト)への移行が進んでいます。オフサイト広告は、2024 年から 2027 年にかけて年平均成長率(CAGR)33.3% と予測されており、成長の牽引役となっています(*3)。さらに「Sleeping Giant(眠れる巨人)」として脚光を浴びているのがインストア(実店舗内)広告です。米国においてもいまだ購買の 83.3% は実店舗で発生しており(*4) 、そのデジタル化は小売業にとっての未開拓の好機です。米国のインストア広告の市場規模が 10 億ドルを超えるのは 2029 年とまだ規模は小さいものの、2024 年から 2027 年の CAGR は 34.1% と、最も高い成長ポテンシャルを秘めています(*5)。
NRF 2026 から読み解く、リテールメディアの新たな地平:AI と標準化が拓く顧客体験の未来
全米小売業協会(NRF)が主催する「NRF 2026: Retail’s Big Show」(以下 NRF 2026)では、AI とデータが結びつくことで、店舗とデジタルの壁が消える未来の姿が示されました。
特筆すべきは、「エージェント コマース(Agentic Commerce)」の概念です。Google の CEO であるスンダー・ピチャイは、エージェント コマースを実現するために Google が米国の大手小売企業と提携して開発した標準規格、Universal Commerce Protocol(UCP)を NRF 2026 の場で発表しました。
「今までは単一商品の検索と購入に焦点が当てられていましたが、エージェント コマースでは『娘の誕生日パーティーを計画したい』といったユーザーが成し遂げたいタスクを理解して、必要な複数の商品で構成される『バスケット』を構築することができます」と、UCP の共同開発パートナーの 1 社である Walmart U.S. の ハリ・ヴァスデフ氏(Executive Vice President and Chief Technology Officer)は話しました。
UCP を導入すれば、たとえば Gemini や AI モードなど、Google の画面上で直接商品を購入できる
生活者とのエンゲージメントも、直線的な購買プロセスから、検索や検討を行ったり来たりする複雑な回遊型へと変化しています。Walmart のサラ・ヘンリー氏(Head of Content, Influencer, & Commerce)はセッション ‘Retail creators’ にて「クリエイターエコノミーは今も大きくなっている」と述べ、同セッションでは「クリエイターのコンテンツは常にブランドの公式資産を大幅に上回るパフォーマンスを見せる」と他登壇者も強調しました。
また、計測が困難とされてきたインストア広告の標準化も進展しています。セッション ‘The Great Scale-Up’ では、デジタル広告の技術標準を策定する業界団体 Interactive Advertising Bureau(IAB)とスーパーマーケットチェーンが提携し、インストアの計測をオフサイトと同様の標準化へと導いた事例が発表されました。IAB のコリン・コルバーン氏(Vice President, Commerce & Retail Media)はセッション ‘Beyond the Impression’ で、インストア広告の評価基準として「3Ps(Play:再生、Presence:存在、Pairing:同期)」を定義し、店舗を「検証可能なメディア」へと昇格させています。
NRF 2026 から見えてきた「日本の小売業で検討が求められる 10 の論点」
NRF 2026 で示された構造的な変化を俯瞰すると、これからのリテールメディア事業について考える上で注目したい「10 の論点」が浮き彫りになります。これらは単なる広告事業の戦術論ではなく、リテールビジネスそのものの競争優位性を再定義するための、戦略的なアジェンダと言えるでしょう。
持続的な利益をもたらすリテールメディアを創り上げるアプローチ
最初の 4 つの論点は、リテールメディア事業戦略に関する点です。
1:リテールメディアの成長戦略
日本の小売業が直面する収益性向上という課題に対し、異次元の利益率をもたらすリテールメディア事業をどうスケールさせるかが問われています。
米国では、2025 年時点で Amazon と Walmart の上位 2 社でリテールメディア広告支出の 84.9% を占めており、その割合は 2026 年時点で 89.4% まで増加すると想定されています(*6)。米国で成功しているリテールメディアは自社 EC サイトのトラフィックを活かして高い営業利益率を維持しつつ、オフサイト配信でリーチを拡張し持続的に成長しています。
どの領域(オンサイト、オフサイト、インストア)からエントリーして、どの領域に拡張をするのかが事業戦略上鍵となります。プロダクト開発の原資を獲得するため、事業を速やかにスケールさせることも不可欠です。
2:リテールメディアネットワークの内製・外製の選択
米国では金融系メディア(FMN)などの「非リテール系」メディアが年平均 34.1% で急成長し、新たな競合となっています(*7)。購買データは特定の小売店に縛られない汎用性の高いものとなっており、ブランド広告主の利用が増加しています。
自社でネットワークを主導する(Make)のか、既存のネットワークに参加する(Buy)のか。自社のデータ資産の希少性を見極めた上で戦略的判断を検討する必要があります。特定の生活者セグメントや商品カテゴリで自社ネットワークを主導するか、汎用性の高いリテールメディアとして主流ネットワークで市場シェアを獲得するかにより、成長の軌道と必要な組織の能力は異なるからです。
3:オフサイト広告の戦略的拡張
自社サイトの枠を超えた顧客接点の創出が成長を左右します。PayPal Ads の Dr. Mark Grether 氏(SVP & General Manager)はセッション ‘From Retail to Commerce Media’ において、「リテールメディアは自社の広告在庫を非常に早く使い果たしてしまいます。ストアフロント広告プロダクトによって、(自社サイト以外の)オープンウェブのインプレッションを EC サイトや実店舗への送客に変え、リーチを拡張する手助けができます」と述べています。
2025 年のオフサイトのリテールメディアネットワーク支出において、ソーシャル経由は前年比 39.3% 増、コネクテッドテレビ経由は 38.0% 増と急成長しています(*8)。日本においても、オンサイトの広告在庫には限界があることから、オフサイト広告はリテールメディア事業の成長に不可欠と言えるでしょう。また、インフラ面ではクリーンルーム技術などを活用し、外部プラットフォームで自社データを安全に活用することを検討する必要があります。
4:インストア ROI の可視化
日本においても、リテールメディア事業で先行している EC 専業の小売業に対し、実店舗の小売事業が主体である企業にとってはインストアの広告事業は差別化要素となる可能性があります。
鍵となるのは、インストア広告に対する投資対効果(ROI)の証明です。2025 年 12 月に IAB からインストア広告の効果計測の基準(例:“Verified Impression”, 検証済みインプレッション)が提案されました。顧客であるブランド広告主に対して標準的かつ一貫した効果計測ができることが事業の成長を左右するでしょう。
また、効果計測のための人流計測センサー・カメラなどの設備投資及び運用コストを回収するため、店内の人流計測に基づくオペレーションの効率改善も追求することがもう 1 つの鍵です。
全て自前主義ではなく、パートナーシップ構築も重要です。たとえば Google Cloud のパートナーである Oriient は、個人情報に配慮しながら、ハードウェア設置不要で誤差1m以下の人流計測が可能なソリューションを提供しています。Oriient は日本でもカインズやトライアルカンパニーといった小売企業と実証実験を進めています。
リテールメディア事業と信頼の両立
顧客体験を阻害する過度な広告は、ブランド価値を下げ、本業の小売業の価値を損ないます。次の 2 つは、いかに生活者の体験価値を損なうことなく、メディアとしての信頼を両立させるかに関する論点です。
5:ユニファイドコマースの実現
The Harris Poll と Quad による米国での調査では、18 歳以上の 79% が「実店舗における体験が記憶に残ることがある」、77% が「実店舗での体験が購買に影響することがある」と回答しました。その一方で、オンライン広告についても、67% が記憶に残ることがあると回答しており、デジタルとリアル、それぞれの接点が生活者の認知や意思決定において重要な役割を果たしていることがわかります(*9)。
日本においても、HAKUHODO EC+と博報堂買物研究所の調査から、20 〜 69 歳の 52.3% が EC と実店舗で月 1 回以上の頻度で買い物をし、かつ EC と実店舗で 1 年以内に同じカテゴリの買い物をした「ハイブリッド消費者」であることがわかっています。さらにその内の 50.2% が、EC サイトと実店舗を横断した体験に不満を感じたことがあると明らかになりました(*10)。オンラインの利便性と実店舗の情緒的な体験をリテールメディア広告も含めて融合することは日米共通の課題と言えるでしょう。
6:クリエイターエコノミーの活用
IAB によると、米国におけるクリエイターに関連する広告支出は 2026 年に 439 億ドルに到達すると推計されており、2021 年以降の CAGR は 26% で拡大しています(*11)。
市場の成熟に伴い、米国大手の Walmart が独自のプラットフォーム「Walmart Creator」を立ち上げるなど、小売企業自らがクリエイターとの接点を構築する動きが一般的になりつつあります。こうしたクリエイターエコノミーを戦略的に取り込む動きは日本においても本格化しつつあり、2026 年 2 月より正式に開始された楽天と YouTube ショッピング アフィリエイトプログラムの連携はその好例です。クリエイターの動画からシームレスに商品ページへの遷移・購入を可能にするこの仕組みは、日本におけるリテールメディアの拡張性を象徴しています。
AI による購買プロセスの変容
AIによる生活者の購買プロセスの変化はリテールメディア事業のみならず、本業の小売業にも影響を及ぼします。次の 2 つの論点がポイントになるでしょう。
7:エージェント コマース時代への備え
IAB の調査によると、米国生活者の 38% が買い物時に AI を使っていると回答し、52% が今後の買い物に AI を使うと回答しています。また、購買を決定するときに役に立つのは検索エンジンが 1 位、AI ツールが 2 位、小売企業の Web サイトやアプリが 3 位であることも述べられています(*12)。AIとの対話で購買を決める場合、AI に加えて検索エンジンや小売企業の情報源も参照するなど、行動パターンは増加します。
特に、エージェント AI が小売企業の Web サイトやアプリの内外で生活者のコンテキストに合わせてブランドの情報を提供できるよう、小売企業は商品フィードデータの拡張と標準化を検討する必要があります。
8:AI 時代の新たな検索広告フォーマットへの対応
Google は「AI による概要」「AI モード」への広告掲載を段階的に進めています(執筆時点では国内未対応)。エージェント AI に生活者のコンテキストに合わせて広告を表示させるには、商品フィードデータの拡張と標準化を検討することが重要です。広告を出稿することで、AI が関連する購買プロセスについてのパフォーマンスの知見を早く蓄積できる点がメリットと言えるでしょう。
変革を実行するインフラ
以上の通り、リテールメディア事業の成功のためには、事業のエントリーポイントと成長領域を明確化し、自社で所有する機能(Make)と外部に頼る機能(Buy)を識別・確保し、投資原資を抽出するための速やかなスケールの確保が必要となります。さらに、リテールメディアと信頼の融合、AI による購買の変化にも対応する必要があります。最後に、これらの複雑な変化に対応するための組織と予算のマネジメントに関する 2 つの論点です。
9:組織のチェンジマネジメント
全社的な連携を阻む最大の障壁は、部門間の優先順位の不一致です。米国のリテールメディアリーダーの 54% が「マーチャンダイジング(商品)チームとの対立」を課題に挙げており、リテールメディア担当者のレポートラインが分散している現状が意思決定を遅らせています(*13)。
リテールメディアを利益成長の柱として再定義し、商品部門を「共同オーナー」として巻き込む組織再編を検討する必要があります。
10:ブランドと小売の予算の統合管理
ブランド広告主は、断片化された施策ではなく効率的な投資先を求めています。広告主の 66% は、リテールメディアと販促、ロイヤリティプログラムが融合した「統合された戦略」をリテールメディアネットワークに求めています(*14) 。生活者の複雑な回遊行動に寄り添うため、販促費と広告予算を切り分けず、横断的な視点で予算を最適化するモデルの構築を検討する必要があります。
IAB は、ブランドと主要小売企業が「ジョイントビジネスプラン(JBP)」を通じて連携することを推奨しています(*15)。お互いの優先順位を理解した上で、短長期の財務目標や広告・販促計画を共有することが重要です。
リテールメディアを顧客起点の経営の要に
AI の台頭や購買プロセスの複雑化が進む中で、小売企業が迷わず進化を続けるための「北極星」となるのは、徹底した顧客視点です。NRF 2026 の壇上で、Walmart U.S. のハリ・ヴァスデフ氏は、リテールメディアを単なるツールとしてではなく、エコシステム全体の中での「顧客への向き合い方」として定義しています。
「私たちはオープンなエコシステムこそが重要だと思っています。特に強調したいのは『顧客起点』であることです。特定のプラットフォームや技術にロックインされないようにすることが、今後の企業にとって正しい戦略なのです」
リテールメディアの真の価値は、単なる広告収益の獲得にとどまりません。それは、データを介して生活者を深く理解し、ブランドとリテールの垣根を超えて1 人ひとりに最適な価値を届ける顧客起点の経営へと進化することにあります。
今後、Think with Google では本記事で提示した「10 の論点」を掘り下げ、具体的な成功事例や技術的な詳細をシリーズとして紹介していく予定です。
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