生活者の消費行動の変化、人件費や物価の高騰、株主からの改善要求など、さまざまな理由から小売業の収益環境は厳しい状況が続いています。Think with Google でも 2023 年に、これからの小売企業が取り得る 5 つの戦略が提示されましたが、その 1 つがリテールメディアでした。
この記事が公開されてからの数年の間にも、私たちボストン コンサルティング グループがメーカーや小売企業の経営層と議論を重ねる中で、リテールメディアへの注目度が急速に高まっています。しかしその裏で、リテールメディア市場の全体像は不明確であり、導入に二の足を踏んでいる企業が多いのも事実です。
原因は、リテールメディア広告出稿の原資となりうる予算の複雑な実態や構造を、詳細に俯瞰できるデータが存在しなかったことにあります。日本の複雑な商習慣の中で、リテールメディアの原資となり得る予算は、企業ごとに呼称も計上方法も統一されていないのが現状です。
市場の現状や成長余地が正確に理解できなければ、メーカー、小売企業ともに、この新しい領域への本格的な投資判断はできません。
そこでボストン コンサルティング グループでは、同様に課題感を持っていた Google と共に調査を実施。この複雑な費用の構造を解明し、リテールメディアの成長余地を推定しました。
なお今回の調査対象は、リテールセールスチャネルがその他業種から独立している情報通信を除く、広告業界における以下の主要な製造業とその商品が販売される小売業態に絞りました。算出にあたっては、対象メーカーや小売企業のエキスパートに対するインタビューに加え、財務諸表や各種指標を分析しました。
- 対象メーカー:消費財、家電
- 対象小売企業:上記が主に販売される 6 業態(GMS、スーパー、ディスカウントストア、コンビニ、ドラッグストア、家電量販店)
また、今回の調査対象には、EC 専業のプラットフォームは含めていません。その点で、今回の算出結果は、従来型の店舗事業者が持つポテンシャルを純粋に浮き彫りにしたものと言えます。
「見えていなかった」2.2 兆円の販促市場を発掘
調査の目的は、「誰が、いくらの費用を、どこで、どのように負担しているのか」を明らかにすることでした。
まず、リテールメディア広告出稿の原資の 1 つである「広告費」については、電通の「日本の広告費」などの調査で推計されています。今回の調査対象業種に絞ると、その広告費全体は約 1.6 兆円です。
一方で、実態が推定されていなかったのが「販売促進費(販促費)」です。なぜなら、メーカーが小売企業へ支払う費用は、店頭販促費、営業企画費、流通対策費のほか、マーケティング予算など、複数の予算から拠出されているからです。さらに財務会計上も、この費用について業界統一の基準はありません。メーカー側では販売費及び一般管理費(SG&A)として経費計上する場合もあれば、売上から直接差し引く処理する場合もあります。 小売企業側でも、値引き前の売上を計上しつつ、受け取った販促費を商品原価の減分と相殺して処理する場合や、単に商品原価の削減として扱う場合など、複数のパターンが混在しています。
そこで今回、私たちはこれまでリテールメディア市場のスコープ外にあったメーカーと小売企業全体の販売促進費(メーカーにおける店頭販促費、営業企画費、流通対策費及び小売企業における販売促進費)の費用の実態を推計しました。
その結果、販促費に該当する費用のうち、リテールメディア広告出稿の原資として特に注目すべき以下の 9 領域を特定しました。
- 販売員派遣(メーカーが負担する店舗スタッフまたはラウンダーの人件費)
- 商品値引き(特売などで価格を下げるための原資)
- 商品クーポン / ポイント(特定商品の購入に付与される特典)
- 基本ポイント(小売企業が決済額に応じて付与するポイント)
- 折込(チラシの制作・配布費)
- 販促ツール(店頭 POP やデジタルサイネージなどの制作費)
- キャンペーン(懸賞やイベントなどの施策費)
- 基本リベート(取引条件に基づきメーカーが支払う割戻金)
- スポットリベート(新商品導入や棚確保、特定の催事などで発生する協賛金)
注目すべきは、このうち電通の「日本の広告費」調査に含まれていたのは「5. 折込」「6. 販促ツール」の 2 つだけだったという事実です。つまり、それ以外の 7 領域は、これまでリテールメディアの市場機会としてカウントできていなかった「隠れた巨大市場」だったのです。
先ほどの調査手法でそれぞれの市場規模を合計したところ、9 領域を合わせた販促費市場全体は 2.2 兆円規模に上ることが判明しました。既存の広告費 1.6 兆円と合わせれば、実に約 3.8 兆円もの巨大な予算が、店舗事業者のリテールメディアの潜在的なアプローチ領域として浮かび上がります。この数字は、小売企業側は所属形態別に、そしてメーカー側は商材別、費用項目別、拠出先である小売企業の業種別に予算規模をボトムアップに算出した結果を合算したものです。
店舗発のリテールメディアは、10 年で 1 兆円規模へ
次に私たちは、推計した約 3.8 兆円の予算について、「投資対効果(ROI)計測の感度」や「商習慣との結びつき」の観点から、各項目の今後のデジタルシフトの蓋然性を評価し、今後 10 年間の市場規模を推計しました。
たとえば、広告効果の計測が一般的に難しく紙面媒体の閲覧が減少している「5. 折込」はデジタルシフトの可能性が高い、従来の商習慣と密接な「2. 商品値引き」はシフトの可能性が低い、と評価しています。
メーカーの営業部門の視点では、ROI の計測が難しくとも、小売業との関係性維持のために拠出している販促費が相応にあります。ただし冒頭で述べたように、厳しい経営環境下では広告費、販促費ともに投資対象の明確化と ROI の説明責任が求められています。広告費と販促費それぞれの ROI の計測に加えて、広告宣伝と販促活動の連動や相乗効果を計測することが、合理化の鍵となるでしょう。そして、マーケティング活動のデジタル化は ROI を計測する上での前提となります。
小売企業側としても、メーカーの投資した広告費と販促費の効果を示せるリテールメディアを開発・運用できれば、小売事業での売上とリテールメディア事業を拡大できるでしょう。
今回、各項目のデジタルシフトの可能性を評価したところ、EC 専業プラットフォーマーを除く店舗事業者のリテールメディア市場は、2025 年の 1,190 億円から、2035 年には 1 兆 905 億円まで成長すると推計できました。年平均で約 25% という成長率です。
広告と販促がデジタル化するその「間」に、1 兆円規模の新たな市場が生まれるのです。
1 兆円市場を現実にするための条件
しかし、この未来は約束されたものではありません。実現には、高いハードルを越える必要があります。
1 つは、「生活者視点」に即したリテールメディアの開発・運用です。リテールメディアは、企業が一方的に見せたい広告ではなく、生活者の購買ジャーニーに寄り添い、役立つ情報を提供するメディアへと進化する必要があります。
たとえば、必要なクーポンを見つけるためにアプリ画面を延々とスクロールしなければならない状況や、デジタルサイネージで表示されている商品がすぐに見つからない状況は、生活者に寄り添っているとは言えません。カスタマージャーニーの中に、欲しい情報が自然に溶け込んでいる必要があります。
生活者視点を徹底するためには、メーカーと小売企業の「共創」も重要です。
「共創」とは、経営層によるリテールメディア推進の号令だけではなく、メーカー・小売企業の双方の管理職、担当者レベルで ROI に関する共通の指標と目標の設定を行い、運用をしていくということです。
生活者に寄り添ったリテールメディアの開発と運用、経営層の号令にとどまらない現場レベルまで行き届いた「共創」を実現できたメーカーと小売企業こそが、この 1 兆円のリテールメディア市場の果実を手にすることができるでしょう。
続く記事では、リテールメディアを単なる広告枠ではなく、生活者に寄り添った顧客体験を提供する装置として再定義する新たなアプローチを解説します。
Contributor:中原 啓智(シニアマーケティングリサーチマネージャー)